きらりと、儚く

忘れないよずっと

名前のない まとまりもない独り言

 

私にとっていのちゃんはどんなひとかと聞かれたら、「特別なひと」だと答える。

 

でも、読み進めたいと思うのは、全巻集めたいと思うのは、やっぱり山田くんで、それはやっぱり文庫本じゃなくてハードカバーで揃えたくて、古本屋に売ったりせず手元に置いておきたくて、そんな風に思うのである。

まだ自担に泣ける - 名ばかり担当論 - - 門限の9時

これほど自分の気持ちにぴたりと当てはまる言葉は他に出会ったことがない。自分の言葉で考えても、この一文を上回ることはまだできていない。

 

Hey!Say!JUMPのファンになって、決して長くはないけれど短いとも言えない年月が経った。しかし、私は未だに、自分自身を伊野尾担と名乗ることに違和感を覚える。

コンサートに行っても、DVDやテレビを見ていてもどこかでもう一人の自分が冷静に私を見てる。楽しくオタクをしていても、私はどこかでずっと理性を保っている。コンサートのオープニング、メンバーの顔が画面に映し出されたときに歓声をあげる側の人ではないし、かっこいいかわいいしか言えなくなるほど語彙力を失うことも、終始自担を目で追うこともほとんどない。いや、Twitterやブログなどでは素直に感情を出せていると思う。ただ、実際私を見たときはどこか冷めているなと思わせてしまうかもしれない。上手く感情を出せない。それが、いつも理性が勝ってしまうということなんだと思う。

 

Hey!Say!JUMPを好きな理由は音楽だ。

彼らが音楽を仕事とする人でなかったら、私はファンにはなっていなかったと思う。

 

 

 

似ていないところも、苦手なところもある。だけど、この人すごいなってじわじわと押し寄せる感動もある。頭が良いって知識や学歴のある人だけではないんだなと、いのちゃんを見てるとつくづく思う。いのちゃんは賢い。才能?こういう頭の良さって努力で手にいられるものなのだろうか。生まれ持ったセンスなのかな。でもそこで、かっこいいな、すごいなで終われたらいいんだけど、どうしても心の奥で沸々とわいてくる感情がある。

 

 

 

悔しい

 

だ。

 

 

自分でも笑っちゃうんだよ。なんで私はアイドルに対抗心を燃やしているの?素直に、自担のここが好き、かっこいい、でいいのに

それができない。

 

これが、私が自分を伊野尾担と名乗ることへの違和感の理由の一つだと思う。

 

 

でも、この人に負けたくないと思う。

そう思う存在が私にとっては伊野尾慧だった。

私は掛け持ちをしているし、JUMPは担当という文化を忘れるくらいみんな好きだ。だけどこの感情はいのちゃんにしかない。

 

私はいのちゃんに負けたくない。そして、彼を応援することで私は何か変われるかもしれないという気持ちがある。

 

分からないけど、私って捻くれてるのかもしれないけど、そう思わせてくれる人を大切にしたいと思った。

 

人それぞれ抱く感情は違うけど、みんな同じように“伊野尾担”だから、今日も私は伊野尾担でいる。

 

 

私が伊野尾担になったのは、JUMPファンとしての入り口になったのが いのちゃんであったからにすぎないのではないかと思う。この何年、いのちゃんを一番に応援してきたけど、未だに「私はどうしていのちゃんなのか」という質問に明確な答えを出せない。

 

ただ、ずっといのちゃんだった。

 

分からないけど、特別なひと だからだ